そうじゃおいたち物語

1章 総社の地名のおこり


総社は、初め仁徳天皇の皇妃八田皇女の名代として八田部(八部)と呼ばれていました。

その後、大化の改新(六四五年)ののち、吉備国が備前(和銅六年に美作国が分国)、備中、備後の三か国に分れて、備中国の国府が総社市金井戸(推定)に置かれ、国司が中心となって、祭政一致の政治が行われていました。平安末期になりますと、国司のカが弱まり、国内の豪族の勢力が強くなったので、国司が毎年国中の二百十二社(末社を合せると三二四社)を巡拝することが困難となり、巡拝の煩わしさを避けるために、国府の近くに社を立てて神々を合祀しました。この社を総社と呼びました。

戦国時代ころになってから、総社を総社宮とか総社大明神と呼ぶようになり、社の総社が地名として呼ばれるようになって、八田部村の枝村として総社村となりました。

以後、明治八年九月二十五日に八田部村が消えて、総社村となり、続いて村の発展とともに総社町、昭和二十八年に施行された町村合併促進法によって、昭和二十九年近郷の村々と合併して総社市となったのです。

   総社宮


2章 総社のおいたちへ

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