そうじゃおいたち物語

2章 総社のおいたち


一万年以前の先土器時代(土器をまったく使用していなかったので、一般にこう呼びます)の末期のものと思われる、ナイフ形石器が宝福寺裏山から出土していますので、早くから総社市付近に人々が住み、狩猟、漁労、採集を基礎とした生活を営んでいたことが想像できます。

その後、縄文時代になると、現在のところ日羽のケンギョウ田遺跡と真壁の真壁遺跡の発掘調査により、縄文早、後、晩期の深鉢、浅鉢形などの土器片、石鏃をはじめ、大分県姫島産の黒曜石、香川県産のサヌカイト等が発見されました。これらの原石の出土により、ここに住んだ人々が広い交易関係をもっていたことが考えられます。

 やがて今から二千数百年前ころになりますと、長い長い間、採集、狩猟、漁労の生活を続けてきた人々は、新しい進んだ生産の技術を知りました。これが大陸から伝わってきた、水稲の栽培にともなう農耕生活の発展と金属器の使用でした。こうして農耕社会が成立すると、人々の生活は大きく変化しました。

当時、吉備高原の南端部と福山丘陵地に挟まれたこの地方の低地には、高梁川が湛件付近から流路を何度となく変更しながら東に流れていて、長い年月の間、上流から柔らかい肥沃な土壌を運んで低湿地となり、水稲栽培をするのには最適の場所となっていました。

農耕社会が成立すると、有力な者は富を蓄え、支配する力をもつようになり、貧富の差が生じてやがて支配する者と支配される者との階級の区別が生れ、身分の違いが次第にできあがっていったのです。また、村と村との間では、併合、服属、連合がなされ、弥生時代後期には地域ごとにいくつかの村を統率する首長もあらわれてきました。


3章 古墳時代へ

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