そうじゃおいたち物語

3章 古墳時代


四世紀から律令体制が確立するころまでには、総社市付近、高松(岡山市)−足守(岡山市)周辺、真備町周辺には首長たちが自らの権威を永遠に誇示するため、巨大な古墳を作っていったのです。

総社市およびその周辺だけでも二千基以上に及ぶ大小の古墳群が存在しています。そのなかでも三須の作山古墳、こうもり塚古墳、阿曽の随庵古墳(発掘調査後消滅)、井尻野の佐野山古墳、三輪の宮山天望古墳などが有名です。

三須の作山古墳(未発掘、国指定)は、全長二八六メートルもあって、全国九位に位する巨大な五世紀頃の前方後円墳です。三段に集成され、平坦面の縁には数センチ間隔に素焼の円筒埴輪が埋められています。

阿曽の随庵古墳は、昭和三十三年十二月に市の簡易水道送水池工事中に発見され、すでに一部が破壊されていましたが、緊急発掘しました。この古墳は、五世紀後葉のもので、全長約四○メートルの帆立貝式古墳で、竪穴式石室には割竹形木棺の一部が残存し、遣物としては棺内から位至三公鏡一、有孔円板六、刀剣五、勾玉三一、ガラス製小玉(大、中、小)多数、短甲一、冑一、槍身、鉄鏃その他鉄製品多数が出土しています。

阿曽の随庵古墳は、規模としては、総社市周辺の古墳のうちでは中位以下のものですから、この地方では、そのころすでに強大な支配者を中心にして、幾つもの政治ブロックが生れ、さらにそれが相互にある程度の結びつきをもっていたことが分ります。おそらく前述の作山古墳は、吉備国全域に力強い勢力をもっていた吉備国造の墓ではなかろうかといわれています。

このことから、おそくとも五世紀前半から中葉にかけて、吉備国が一つの強大な政治的まとまりをもっていたことを示しています。しかし、日本書紀にみえる、十代天皇の治世に四道将軍が派遣され、山陽道には吉備津彦命が派遣されたという事項は、その真偽は別としても、大和朝廷の勢力が次第に強くなって、この強大な吉備国も大和朝廷の支配下に入っていたことを物語っています。


4章 飛鳥、奈良時代へ

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