そうじゃおいたち物語

4章 飛鳥、奈良時代


仏教伝来(六世紀なかごろ)から推古天皇前後の約一世紀は都」が大和の飛鳥地方にあったので飛鳥時代と呼ばれ、その文化を飛鳥文化といっていますが、この時代は聖徳太子によって朝鮮、中国の文化が積極的に取り入れられ、我が国最初の仏教中心の文化がつくられました。日本書紀によると、その真偽は別として、当時、太子は全国四十六か所に寺院を建立したとしてあります。その一つが総社市秦にある秦廃寺といわれています。

秦廃寺は、いまは昔の面影を偲ぶことさえできないのですが、飛鳥時代に属する層塔の芯礎一個、その他二十数個の礎石が付近に散在しています。これらの礎石や出土する古瓦などから伽藍配置は法起寺式にちかく、規模は現在の法隆寺に匹敵すると想像されます。

また服部には、当時加夜国造であり、吉備一族の有力氏族であった賀陽氏の氏寺といわれる栢寺廃寺(加夜寺)がある。この寺は白鳳期に建立された寺であるが、その後次第に衰微し、江戸時代の天和二年二六八二)、浄土宗の蒙光和尚によって賀陽山門満寺として再建されましたが、現在では廃寺となっていて、創建時の礎石は心礎ほか数個残っているにすぎません。なお、賀陽氏については扶桑略記、今昔物語にも書かれています。

このほか、奈良時代の寺院としては国分寺、国分尼寺があります。国分寺は天平年間(七二九〜四九)に建立され、その後次第に衰微して鎌倉時代以後礎石のみを残す廃寺となりましたが、享保二年二七一七)に清水山惣持院万勝寺住職、増鉄和尚によって、本堂、聖天堂、不動堂、客殿、庫裡、鐘楼、経蔵などの伽藍が再建され、寛政六年二七九四)には大修理がなされ、文政四年(一ハニ一)から約十四年間を費やして、五重塔が讃旭和尚によって再建されて、現在の国分寺の伽藍配置ができあがりました。尼寺についてははっきり分りませんが、国分寺と同様に鎌倉時代以後に廃寺となり、その後再建されることもなく、礎石もあまり移動された形跡もなく、そのまま残っています。

仏教以外に政治的方面では、大化の改新(六四五年)によって、国、郡、里(後に郷と改称)の行政区画に分けられ、吉備国も備前(後に美作が分れます)、備中、備後のご三国に分けられ、備中国を九郡(後に十一郡)七十二郷に分けています。備中国の国府は総社市金井戸付近(推定)に置かれ、方六町〜方八町の地域を選んでここに国衙やその他の建物があって、政治全般のことが行われていました。

また、班田収受法を行うため条里の制がひかれ、土地区画をしたので、服部、久米、神社、下三輪付近には整然とした条里遺構が残っています。そのうえ、大陸からの渡来人も早くから移り住んでいたと思われる服部、秦、西郡などの地名、名代、子代に関係する地名(八田部、刑部、藤原部、径部、白髪部など)も各地に残っています。

これらを総合すると、この地方は飛鳥、奈良時代には備中国の国府の所在地として、政治文化の中心地であるばかりでなく、あらゆる面から備中国の中心地で、各里(郷)には村々があり、そこで農耕生活と農耕に必要な各種家内工業が営まれ、その村々の近くに立派な寺院や神社、支配者の住宅が点在して、当時としては最も繁栄を極めた土地であったことが想像できます。

そのほか、六六一年に斉明天皇および中大兄皇子は百済援助のため、朝鮮に出兵したが、六六三年白村江の戦いに日本軍が敗れたので、新羅、唐連合軍の進攻を防ぐため、各地に朝鮮式の山城を築いたが、その一つと思われるものに奥坂の鬼ノ城があります。現在でも石塁、土塁、水門、礎石などが残っています。この鬼ノ城はその後、戦国時代に当地方の国衆の一人、中島大炊介元行がこの堅塁を利用してここ砦を設けています。

国分尼寺跡・現在は赤松林のなかに、往時を偲ばせる礎石が残るのみである


5章 平安時代へ

総社おいたち物語目次へ