そうじゃおいたち物語

5章 平安時代


 大化の改新によって、中央集権化が進むとは逆に地方の豪族達の権力は衰えていきましたが、同時に文化的方面でも地方独目の文化が衰えていきました。しかし、備中国の中心地であるこの地方には平安時代になっても、山岳仏教の霊地として、新山寺、岩屋号、山手村福山の朝原寺などが栄えていました。

特に新山、岩屋地域には岩屋山十六坊、新山菩堤守屋敷十四坊、嶽寺塔坂八坊などの三十八坊があり、平安末期の延久三年(一〇七一)高僧成尋阿間梨(入宋後、彼処で没し善意大師の号を宋朝より贈られました)が入宋前の一時を新山寺で修行しています。このことは当時新山が天下に著名な仏教の霊場であったことを物語っています。

また、その麓の阿蘇郷には正倉院文書の「天平十一年備中国大税負死亡人帳」によりますと西漢人などの渡来人が多く住んでいたようです。これらの渡来人は農耕のかたわら鍋、釜、鍬などを作り、時には寺院で必要な梵鐘、湯釜などを作っていました。現在では、新山に残る礎石、鬼の釜、皇の墓、鬼瓦などの遺物によりこれを知ることができるだけとなっています。

神社については、延長五年(九二七)に完成した『延喜式』に備中国十八座が記されています。市内には、このうち百射山神社(三輪)・古郷神社(総社)・野俣(沼田)神社(総社)・石畳神社(秦)・麻佐岐神社(秦)・神神社(八代)・横田神社(久代)の七社があります。

もう一つ、平安末期にこの地方の豪族、妹尾兼康が十二箇郷用水路の改修を行っていることは忘れることのできない事柄です。十二箇郷用水路は遠く四世紀の初め頃、仁徳天皇によって開かれたといわれ、『弘仁式』には「備中国、修造堰溝料一万束」、『延喜式』には「備中国、修造堰溝料一万七千束」とあるから、堰溝の修造料を国費から支出していたわけで、その由来の古いことと重要な堰溝であることが分かります。恐らく十二箇郷用水路であることは間違いないと思われます。この用水路によって、現在でも十二箇郷の農民が無形の恩恵を受けています。


6章 鎌倉時代へ

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