そうじゃおいたち物語

7章 室町時代(南北朝、戦国時代)安土桃山時代


鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政がなされましたが、しかし長い反目抗争をしてきた公家、武家が一体となって政治をすることは容易でありませんでした。そのうえ論功行賞間題や重税問題で、武士、庶民とも新政に対する不平不満が多く、これを利用して足利尊氏が武家政権を樹立しようとして、一度京都に入りました。しかし、敗れて九州に走り、再び入京しようとした当時、当地方には薬師寺氏(十郎朝貞)、頓宮四郎左江門慰、真壁氏などの豪族がいて足利方に属し、足利直義とともに新田義貞の直系福山城主、大井田氏経を落城させて(福山合戦という)足利尊氏の入京を助けています。

やがて尊氏が光明天皇を擁立して幕府を開きましたが(一三三八年)、後醍醐天皇はなお皇位の正統を主張し吉野に逃れ、ここに吉野の朝廷(南朝)と京都の朝廷(北朝)にわかれ、約五十七年間の争いが続きました。

このころ、当地方は南朝の山名氏の勢力支配下に置かれていたようです。その後、山名氏が南朝方を離れて足利幕府に帰順したので備中守護は宮下野入道となり続いて渋川一門に替り、元中九年(一三九二)南北朝が合一し、将軍義満が室町に幕府を開くころには備中守護は細川氏一門によって代々引き継がれ、守護代として荘、石川の両氏がいました。

続いて戦国時代になりますと、応仁の乱ころから在地勢力の成長によって、細川氏の守護としての支配勢力が次第に弱まり、支配は名百だけのものとなり、備中土着の勢力である守護代石川氏、荘氏、伊達氏、成羽の土豪三村氏などを中心として、土着国衆が守護細川氏を差し置いて権力を握って群立していました。

当地方の国衆をあげると、新本の長井氏(市場古城)、荒木氏(馬頚城)、山田の上田氏(鬼ノ身城)、久代の福田氏(福田城)、秦の川西氏(荒平山城)、神在の上野氏(木村山城)、渡辺氏(蓑越山城)、明石氏(タ部山城)、服部の祢屋氏(長良山城)、小寺の中島氏(鬼ノ城、経山城、小寺要害、片山城)、清水氏(清水岡古城)、井山の矢尾氏(井山城)、宍粟の赤木氏(白毛城)、槙谷の不詳(鍋坂城、高馬城)、美袋の結城氏(大渡城)、高戸氏(岸ノ上要害)、延原の豊岡氏(延原古城)などがいました。

これらの国衆は、東は赤松氏−浦上氏−宇喜多氏、北は尼子氏、西は毛利氏などの守護、守護代に囲まれて、その勢力の消長によって常にその行動が左右されていましたが、中島氏、清水氏、祢屋氏などは常に毛利氏幕下の部将として終始しています。

元亀二年二五七)尼子勢が中島大炊介元行の居城経山城を攻撃したとき、元行の母は武装して長刀を手に、女房達二十人とともに健気にも防戦し、日夜砦の周辺を見廻り、士卒を激励して戦に参加し、遂に尼子勢を追い払ったという女丈夫物語も『中国兵乱記』に残っています。

その後、当地方を含む備前一ノ宮境目以西は毛利氏の支配するところとなり、以東は宇喜多氏の勢力下に入りました。一方、京都においては織田信長が天下統一のため羽柴秀吉を中国に派遣し、宇喜多氏を加勢して毛利氏を攻撃し、両軍が天正十年二五八二)四月二十七日から六月四日まで対陣しました。これが世に名高い高松城の水攻めです。

しかし、六月二日に本能寺の変が起り、信長が明智光秀のため暗殺されたので、秀吉は和睦を申し出て、城将、清水宗治の自刃と高梁川以東は宇喜多領に、以西は毛利領にすることを条件に和睦が成立すると、だたちに軍を引き返して山崎の合戦に明智光秀を破り、その後、幾多の戦を交えて遂いに天下統一を成し遂げました。

当時、この信長と秀吉に信頼をうけ、その懐刀として活躍した名僧に当地出身の大機禅師がいました。禅師は備中国下道郡久代村(現、総社市久代)の生まれで、井山宝福寺の満足庵で剃初髪ののち京都東福寺に学びました。天正九年(一五八一)二月には信長の使者として経山城主中島大炊介元行の許に行き、信長方に加勢するように呼びかけています。信長の死後、秀吉の懇望により朝鮮に渡り、当地の人情、風俗などを調査して秀吉の朝鮮出兵に参画。その後、秀吉の実子秀頼の養育係を依頼されましたが、建仁寺の清韓長老を推挙して京を去り、井山宝福寺満足庵の住職となって終っています。


8章 江戸時代へ

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