そうじゃおいたち物語

8章 江戸時代


慶長五年(一六○○)の関ケ原の戦によって徳川氏の覇権が確立し、同八年家康は征夷大将軍に任ぜられて、江戸に幕府を開きました。

将軍から一万石以上の領地を与えられた者を大名、一万石未満で幕府直属の武士で将軍に御目見得を許されている者を旗本、その資格のない者を御家人と呼び、大名の組織を藩といいました。  

備中は初め幕府の直轄統治地となり、松山(現高梁市)に代官小堀氏を置いて統治させましたが、その後、天領(幕府直轄地)、大名領、旗本領に分れました。

当地方の大名領、旗本領の主なるものをあげますと、次のようになります。(藩名・石高・領主・領地・知行地の順)

岡山藩三十二万石池田氏旧秦村、旧神社村(生坂)、旧池田村(生坂(支藩)、天城(国老領)を含む)(天城)、旧常磐村(岡山、生坂)

松山藩五万石池田氏−水谷氏―安藤氏―石川氏―板倉氏 旧総社市の一部、旧昭和町(宇山、延原、けやき、種井、美装、日羽、下倉、影、水内の一部)、旧常盤村の一部

浅尾藩一万余石蒔田氏旧総社町の一部、旧三須村(上林、下林、中林)

岡田藩一万五百石余伊東氏旧新本村、旧水内村の一部(原、中尾)

足守藩二万五千石木下氏旧阿曽村、旧服部村、旧総社町刑部の一部

旗本蒔田氏三千七百石蒔田氏旧三須村(西三須、赤浜)

旗本花房氏六千石花房氏旧総社町の一部(阿部)

このように、当地方は大名領、旗本領が入り交って複雑な統治形態をなしていました。

総社市の中心地である八田部村は、寛永年間(一六二四−四四)ころには石高三千二十二石五斗五合、うち、松山嶺千二百二十九石丸斗三合、浅尾領千七百八十二石一斗一升五合で浅尾領が多少多かったです。市街地の北側が松山領、南側が浅尾領で、道路を挟んで領主が異なるわけです。両側の家数は約三百五十軒が立ち並んでいました。中央付近(現、本町南側)には井手市場があって、ここで市場が開かれ、市場役人(浅尾藩士、藤田氏)が管理していたようです。

当時の豪商としては亀山氏(元戎屋、東戎屋、西戎屋、中戎屋、新戎屋、北亀屋、南亀屋、万輪丸屋)、安原氏(元清水屋、角清水屋)、は和氏(鍋屋、西鍋屋)、池上氏(井手屋)、堀氏(志保屋)、三谷氏(谷屋)、大森氏(角屋)、吉富氏(小寺屋)などをあげることができます。これらの家は酒造、油屋、質屋、小間物屋などの商売をして、近郷の農民との取引が主でしたが、そのほかに倉敷(天領)、玉島(松山嶺)の商人たちとも取引が行われていたようです。

これらの商人のうちには、松山藩、浅尾藩に多額の冥加金や寄付をおさめ、江戸末期には士分に取り立てられた者も多くありました。

旗本蒔田氏は文久三年(一八六三)一万石の大名に高直しされると浅尾藩と改称し、今までの井手知行所から浅尾の陣屋を新築して移り、城下町の形成を考えていましたが、慶応二年(一八六六)四月十三日に長州第二奇兵隊の焼き打ちにあい陣屋は焼かれ、その復興もなされぬうちに明治維新を迎えることになり、城下町の形成もなされませんでした。従って、総社には城下町的色彩を見ることができません。

産業方面では、元禄ころから三輪、真壁を中心として備中売薬がおこり、中、四国地方を懸場として、三百人位の張主、売子が京都岩倉実相院などの保護をうけて、富山売薬商人と懸場を争っていました。

また、平安時代から始まった阿曽の鋳物業もますます栄え、室町時代には吉備津神社、備前一ノ宮の保護のもとに鍋釜、火鉢、備中鍬、梵鐘などを作り、備中一円と備前の一部に販路を拡大していた。特に吉備津神社側釜殿の釜は、阿曽の銭物師が必ず作製奉納することになっています。下って江戸時代には京都の真継家の保護のもとに営業し、その数は九軒で数百人の鋳工を使用していました。

これらの地場産業は備中売薬が昭和三十五年ころまで、鋳物業は昭和二十五年ころまで栄えました。


9章 明治以後へ

総社おいたち物語目次へ