そうじゃおいたち物語

9章 明治以後


 明治維新によって全国が大きく変化したように、現在の市街地も大きく変化し、人口の増加も激しかったのです。

 明治三十七年、中国鉄道(現吉備線)の開通によって、終点湛井駅付近が高梁川の高瀬舟の舟着場として、一時的ではありますが賑やかとなり、これにともなって町内も多少の活気が漂っていました。しかし、大正十四年の伯備線開通にともなって高瀬舟は廃止され、湛井の舟着場もその機能が消滅しましたが、町内は吉備線、伯備線のターミナルとして、また松山街道の宿場町として栄えていきました。

しかし、その後は次第に衰微し、特に第二次大戦後その傾向が強かったのですが、昭和二十八年町村合併促進法が公布され、昭和二十九年再び近郷の村々を合併して総社市となりました。

昭和三十八年新産業都市として岡山県南部が指定されることになり、総社市もこの地域に含まれ、水島機械金属工業団地を誘致し、続いて、カルピス食品岡山工場、レンゴー岡山工場など次々に誘致するとともに、各種住宅団地の誘致にも成功し、内陸工業地域とベッドタウンとして発展しました。

昭和四十七年、岡山県の「吉備路風土記の丘」の指定と、従前からある豪渓(大正十二年名勝指定)、井山宝福寺(画聖・雪舟ゆかりの寺)、鬼ノ城、岩屋などの文化財を合わせて観光都市として機能ももって、着々と都市計画が進められ、平成五年には地域待望の岡山県立大学が市内窪木に開学、その後人口も年々増加し、平成九年現在五万六千人をこえ、今後ますます発展する可能性と立地条件を備える都市となっています。


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